【後編】ただのチーズ好きが、専門店店主になるまで【京都 和酪まつな】
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前編では、チーズ専門店の松原正恵さんに、チーズのにおいと味の違いを手がかりに、チーズの奥にあるミルクや季節、つくり手の存在について見てきました。
後編では、そうした視点を持つようになった松原正恵さん自身に焦点を当てます。
なぜ松原さんは、国産ナチュラルチーズを選び、専門店を開くことになったのか。
その背景にある歩みをたどります。
楽しいと思えなかった仕事から一念発起
京都にあるチーズ専門店「和酪(わらく)まつな」の店主、松原正恵さん。最初からチーズの仕事をしようと考えていたわけではなかったそうです。
大学卒業後、就職の超氷河期世代の松原さんは、実家の税理士事務所で働くことにしました。
「仕事があまりにも楽しくなくて、コーヒーを何杯飲んでも仕事中寝てしまいました笑」
ある昼休み、スーパーで買ったチーズがものすごく美味しかったという話を同僚に熱弁した松原さん。
「私があまりにもうれしそうに話していたらしく、『チーズの仕事したら?』って言われたんですよ。それが腑(ふ)に落ちて、26歳の時に事務所をやめたんです」
チーズを仕事へ。「カットしたて」のおいしさが原点
ただ、そんなにタイミングよくチーズ販売店の従業員の募集があるはずもなく、知識も乏しかったため、まずはチーズ教室に通い始めた松原さん。
1年ほど教室を続けていると、先生から「チーズの仕事の募集があるよ」と声をかけられました。そして大手のチーズ会社の社員になり、百貨店に出店していた店舗に配属されたそうです。
ここで印象深く、大きな気づきがあったといいます。
「チーズって、カットしたてが一番美味しいんだって思いました」
それまでは、カット後に包装された状態で並んでいるものを買うのが当たり前だと思っていました。けれど、カットしてすぐのチーズは、香りも味もまったく違ったのだそうです。
「同じチーズでも、こんなに印象が変わるんだって驚きました」
カットした瞬間に立ち上がる香り、口に入れたときのやわらかさ。ほんの少しの違いでしたが、その体験はチーズの見方を大きく変えました。
知識として学ぶことと、実際に体験すること。その両方が重なって、チーズへの理解はさらに深まっていきました。
フランス行きを断念。北海道が人生を変えた
2年後、チーズの種類や扱い方を習得して退職。会社で取り扱っていたチーズは、ヨーロッパ産がメインだったため、フランスへ留学してもっとチーズの勉強をしたいと考えていました。
「フランスのチーズ工房を周りたいと、お金をずっと貯めてたんですけどね。退職してから、結局旅行の分くらいしか貯金できてなかったことに気がつきました笑」

思い描いていたフランス行きは諦めざるを得なくなった松原さん。その後、あるチーズの協会主催の北海道ツアーを知り、参加しました。

北海道のチーズ工房で生産者と直接話をしていると、それまでのイメージが少しずつ変わっていったといいます。
「つくり方もそうですけど、それ以上に"考え方"がすごく印象的でした」
「苦くない」カマンベールが認識をくつがえす
なかでも強く記憶に残っているのが、カマンベールを食べたときのことです。
口に入れた瞬間、「苦くない」、と感じたそうです。
それまで松原さんの中では、日本のカマンベールは「どこか苦味があるもの」でした。けれど、その一口がその認識をくつがえしました。
「え、これがカマンベールなの?って思って。生産者の方が目をキラキラさせながら説明してくれたんです。『ヨーロッパのカマンベールは苦くないんだ、苦味を僕も無くしたかった』って」
理由まで、生産者は丁寧に教えてくれたといいます。
「"そういうものだから"で終わらせないで、ちゃんと考えてつくっていることに感銘を受けたんです」
この時、「本当においしいチーズに出会った」という強い感動と、チーズ職人の技と努力が心に深く刻まれました。
国産ナチュラルチーズに惚れた理由

北海道での経験を経て、松原さんの中で「国産ナチュラルチーズ」への見方は大きく変わりました。
(※チーズにはプロセスチーズとナチュラルチーズがあり、松原さんはナチュラルチーズを取り扱っています)
「日本のナチュラルチーズって、すごくやさしい味わいが多いと感じています」
筆者も試食させてもらったところ、ヨーロッパ産と比較して、塩味、香りの穏やかさを感じました。
「生産者の方と話していると、牛のことをすごくよく見ているひとが多いことが分かったんです」
やさしい味わいの奥には、環境や手間、そして牛と向き合う時間があるのではないか。背景を考えていくにつれ松原さんは国産ナチュラルチーズに惚れていきました。
そして、2021年にチーズ専門店「和酪まつな」をオープンしました。
自分の目と舌で確かめたものだけを並べる
松原さんは店づくりにも独自の考えを持つようになります。
「お店で販売するチーズは、実際に見て、食べて、自分が納得できたものだけを置いています」
気になるチーズがあれば牧場や製造現場に足を運び、話を聞き、必ず味を確かめる。そうして松原さんが選んだチーズだけが、この店に並びます。

そしてもうひとつ、大切にしているのが保存方法でした。
「基本的に、真空パックにするのは嫌なんです。密閉することで、チーズの状態が変わってしまうんですよね」
なぜそこまでこだわるのか。
北海道で、生産者がチーズをつくるときに出る水分の扱いにひとつひとつ気を配っているのを目の当たりにしたことが大きかったといいます。
チーズは、保存の仕方ひとつで味が変わる。そのことを体感として知っているからこそ、松原さんは売り場に並べる前の状態にもこだわり続けます。
チーズが結んだ、もう一つの縁

チーズの仕事を続ける中で、思いがけない出会いもありました。
偶然立ち寄ったワインバーの店長が、今のご主人です。もともとはイタリア料理のシェフだったといいます。
「気づいたら、そこからずっと関わっている感じですね」
その出会いをきっかけに結婚し、13年前にご主人とともに現在の店を開きました。ご主人がイタリア料理を、その隣で松原さんがチーズを——ふたりそれぞれの「好き」が、ひとつの場所に並んでいます。
いつまでも語れるチーズ

松原さんと話をしていると、どれだけチーズのことが好きかが伝わります。
「購入してくれるお客さんに、チーズと合うお酒の種類や食べ方を提案してると30分くらい話し込むこともあるんです」
取材時も、松原さんはどのチーズに対しても豊富な知識をお持ちで、どんな牧場で、どんな生産者さんで、どんな味で、を次々に語ってくれました。楽しそうに!
チーズが好きな筆者は、時折、取材ということを忘れるくらい松原さんの話に聞き入り、話にでてきたチーズを「自分のお土産」として購入しました。

牛から食卓まで、つながっている
これまでの取材では、牧場で牛を見て、酪農家の話を聞く機会が多くありました。
一方で、そのミルクがどのような人の手を経て、どんな想いで届けられているのかまで、じっくり考えることはあまりなかったように思います。
今回、国産ナチュラルチーズにほれ込む松原さんにお話を伺ったことで、ミルクの生産と、食卓での消費のあいだにある、「加工する人」、「届ける人」の存在が、よりはっきりと見えてきました。
牛がいて、酪農家がいて、加工する人がいて、松原さんのような届け手がいる。
その先に、チーズを手に取るお客さんがいる。
そのつながりの中に、あの一切れがあるのだと、改めて感じました。
【取材協力】
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